終章四 佐為 上
私が彼に気付いたのは、偶然などではないでしょう。
それまでは混濁し、朦朧とした意識の海に溺れていたのですから。不本意で、悔しいという感覚以外には何もありませんでした。
たとえて言うなら、悪夢の中で苛まれでもしているかのようでした。しかし、混沌とし、朦朧とした私の意識が、朝が来て鳥の声に目覚めるように、この時目覚めたのです。
私を目覚めさせたその人はとてもよく見覚えのある人でした。しかし目覚めたとはいえ、未だ寝ぼけてでもいるように、どうもどこか記憶があいまいで、確かによく知っている人なのですがはっきりしません。それでも彼を見た瞬間に覚醒しはじめた私の意識からは、それまでの、ただただ不快な感覚が姿を潜めていきました。
何故なら、私の屍を抱きしめて泣いたその人が、私と同じように冷たい水の中に入って行くのを、なんとしても止めなければいけない、そう強く思ったからです。
私は渾身の力を込めて叫びました。でも声が出ません。そうです、私にはもう肉体が無かったからです。それでも黙って見ていることなど出来ません。私はもう一度叫びました。それが声となって響くことはありえず、酷くもどかしく感じられましたが、それでも私は呼びかけ続けたのです。
「いけない! やめなさい! 戻るのです!」
彼は川の流れを横切るように進んでいきました。そして、その途中で何か叫んだかと思うと、胸の辺りを急に押さえ、苦しそうにしています。私はいてもたってもいられませんでした。胸の痛みに苦しみながらも尚、冷たい水の中に入っていこうとするその人の自虐的な行為に、強い抵抗を覚えたのです。それはまるで二日ほど前の私の姿でした。その先にあるさらなる苦しみを知っていました。単なる肉体の苦しみばかりではありません。むしろ肉体の苦しみは直ぐ消えます。おそらく肉体が「死」を迎えた瞬間にでしょう。しかし私はその後も続く、混濁し、酷く不快な状態を味わいました。もう肉体は無いにもかかわらず手足を縛られて自由が利かないかのような壮絶な苦しみです。
朧な記憶からも、彼がそのような最期を迎えてはいけない人物と知っていました。だから渾身の力を振り絞って呼びかけ続けたのです。
叫び始めて、何度目のことだったでしょう。驚いたことに彼は振り向きました。
彼は川の流れの中で呆然とこちらを見ています。私はまず安堵しました。彼が止まったからです。後はゆっくりと説得するのみです。
「どうか戻ってください。あなたはそのような死を迎えてはいけません。よく考えてください。どうか戻ってください。頼みます。お願いです」
すると、彼は胸を押さえながらも、ゆっくりとこちらへ、岸へと、戻ってきてくれたのです。私は本当にほっとしました。彼はなんとかやっと岸へ戻ると私の方へと、まるで這うように一歩二歩と近づいてきます。しかし途中で力尽き、ガタガタと震えながら地面に倒れてしまいました。仕える者でしょうか、倒れた彼の許に駆け寄っていきます。彼らはその人を抱え上げて、牛車へと運びました。彼はもう気を失ってしまったようでぐったりとして目を開けません。しかし、一命は取り留めている。そのことだけははっきりと分かりました。
次に彼の姿を見たのはどうも彼が目覚めた時だったようです。私もそれまでは意識を失っていました。彼が目覚めると共に、再び私の意識も覚醒したようです。
そして其処は、やはり何処と無く見覚えのある場所でした。酷く立派な寝具に彼は寝ています。つまり私のこのおぼろな意識も、自らの肉体のあった場所を離れ、彼と共にこの場所へ移ったということでしょうか。
周りには帳が下りています。その向こうにかしずく人々を見て、私は思い出したのです。ああ、この人は帝です。私が仕えていた人でした。よく知っていると思ったはずです。あんな死に方をしてはいけないと思ったのもこういう訳でした。
私が呆然としていると、彼と目が合いました。彼は信じられないものを見るような目で私を凝視しています。彼には私が見えるとでもいうのでしょうか? ああ、そういえば彼は河原で私の呼びかけに振り向いたのでした。では、私のこの、どう表現したら良いのでしょう、そう、この魂だけのような存在・・? 意識・・? 塊・・? それを、彼は感知したというのでしょうか?
呆然としている私に、彼はやがて語りかけました。
「そなた・・・何故、余を助けた?」
私は肉体を離れてから、初めて人から話しかけられたのです。ですが、この時自身の、この不思議な感覚を未だ把握しきれていませんでした。
私の肉体は確かに死に絶えました。河原に横たわる屍がそうです。しかし、私のこの意識だけは未だ存在しているということを認めないわけにはいきませんでした。私は完全に死んではいなかったのです。こうして意識だけが存在していることを悟り覚醒することは、混沌とした苦しみの海から浮上することでもありました。なぜなら、肉体が死してから後の、手かせ足かせがはめられているような塗炭の苦しみが、今は消えて無くなっているからです。
それゆえに、私は必死にこの意識を働かせようと、起きている状態を保とうと、知らぬ内に努力していたように思います。またあの苦しい無意識の海に帰りたくは無かったからです。
そして未だ消えてはいない意識がここに存在していて、どうやら、この人には私の意識が感知されており、話しかけられたのです。ならば答えなければいけませんでした。
「入水などという悲惨な死に様を、天子であるあなたがしてはいけないからです」
彼は黙っています。私の意識は感知できても、声はやはり届かないのでしょうか。私はうつむきました。そして呟きました。こう言うのはおかしいかもしれません。叫んでも、呼びかけても、呟いても、どう意識しようと、人間としての空気を震わす声が出るわけではないのですから。しかし、私の意識の中では、「呟き」だったのです。
「あのような地獄の苦しみを・・・あなたが味わってはいけません・・・それはそれは辛く、苦しいものなのです」
すると、彼はやはりこちらを見て、瞳を震わせています。
彼は驚いたことにこう言いました。
「余を恨んではいないのか」
やはり私の声は届いているのでしょうか・・・? 私は必死に答えました。
「恨んでなどいません。私はあなたを一度として恨んだことなどありません。憎んだこともありません。私はあなたが好きでした。しかし、最後はあなたに憎まれてしまいました。これは報いだと分かっています。思い出しました。酷く苦しんだ理由の一つです。後悔です。あなたに謝らなかった。謝らないまま、死にました。強い後悔を覚えました。あなたに陳謝すべきなのに、それを忘れ、私は死を急ぎました」
「謝る・・・? 何故だ・・・? そなたは何故謝らねばならぬ?」
「あなたを・・・苦しめました・・・」
それ以外に、私は言葉になりませんでした。
自分が彼をいかほどに苦しめ、翻弄し、その心を苛んだかと思うと、酷く辛く、苦々しく、言葉では言い尽くせないような気がしたのです。
彼は長い間痛めつけられて笑うことを忘れてしまった人のように、沈みきった顔をしていました。この人のこのような顔を見るのは初めてです。人前でこのような表情をすることはこの人に許されていませんでした。私は本当に胸が痛みました。
そのとき、私はふと、彼以外の人の気配を強く感じました。見れば、女蔵人でしょうか? 彼の声に気付き、そばに近寄ってきたのでしょう。唖然とした顔をして、彼を見ています。私は突然、事態の悪さに気付きました。私の声が聞こえるのが彼だけだとしたら、彼は独り言を話しているか、あるいは、幻聴か幻覚でも見ているように、周りの者の目には映るでしょう。
私はにわかに焦燥感を覚えました。
彼が女蔵人に気付かず、私に何かを話しかけようとするのを、必死に制止しました。私が何か言えば、彼も言葉を発すると思い、私は彼女を扇で差し示し、事態を彼が把握するように努めたのです。すると、彼は私が何を言いたいのか気付いたようでした。そこでまた私は気付きました。どうやら、生きていた頃のように身体的動作もまた意識の一つの要素として、伝えることが出来るようだということに。もっとも伝えることが出来るのは彼だけのようでしたが。やはり、彼には私は人の姿をして見えるようです。
しばらく経ちました。
最初は大きく戸惑ったようでしたが、彼は私が常に共に居ることを受け入れたのでした。いえ、他に選択肢が無かったと言った方が正しいかもしれません。私は彼の許を離れようにも離れることができません。私の意識が覚醒しているのは、彼が私の存在を感知しているからで、その相関関係によって、どうやらこの不思議な状態が起こっているのです。
次第に、彼はこの暮らしに慣れていきました。慣れていくと共に、彼の体も回復に向かい、普通の生活が出来るようになっていきました。
しかし、案じていた事態が起こってしまったようです。気を配るのにも限界がありました。彼は譲位したとはいえ、太上天皇という位の人で、常に誰かが回りに仕えているのです。私に話しかけるのは、声を出すのではなく、強く意識して心で語りかけることでも成り立つということを知ってからは、彼はなるべく努力してそうしているのですが、時に上手くいかないこともありました。そして悪いことが重なるのには、彼が私の屍に触れたという事実が、彼のその後の奇妙な行動とあいまって、悪い噂になり始めていたのです。
彼は上皇となったので、内裏を去ると洛中のしかる院に移りましたが、そこは静かであまり人が多くは居ませんでした。
世間的にはそれは彼の時代が去ったことを意味していましたが、私と過ごすにはとても好都合な場所でした。
ある日、彼は私にこう言いました。
「すまぬ、余の威光は地に落ち、尽き果てた。もはや何の力も持たぬ。そなたの為に何もしてやれぬのだ」
彼が私に詫びるのはもう何度目のことでしょう。分かりません。今、彼の胸を満たしているのは強い強い悔恨の想いと、私に対する謝罪の念だけでした。私達は皮肉にもお互いに同じ想いを抱いて過ごしていたのです。
彼はその際たる想いの一つとして、最後に私へ送った文のことを強く後悔していました。私を死に追いやったのは、御前対局での振る舞いはむろんのこと、とどめとなったのは最後に送った歌の内容であると思い、それを酷く悔いているのです。私は彼に伝えました。
「違います。確かに直接的にはあなたによって酷い状況に追い込まれました。しかし、あなたから送られた歌を理由に、私は死んだのではありません。死を考えたきっかけではあったかもしれません。しかし、あれは発作のようなものでした。私は死を猛烈に望む熱病に罹ったかのようでした。何ものも私を止めることは出来なかったでしょう。真っ直ぐに死を望み、そしてその意志が薄らがないうちに、私は望みを果たしてしまったのです。その望みを遂行する力は私に丁度良く残っていましたから。しかし、私は完全に死ぬことができませんでした。幼き日に羅城門で立てた誓願を果たしてはいなかったからです。こうして魂だけがこの世に残り、生きながらえることになりました」
「それは望むような死に様とも、納得できる生き様とも、どちらともいえぬに違いない」
彼の言う通りです。私は一時的には、抗いがたい力によって肉体を捨てることに満足を覚え、しかし魂だけが永らえ続けるこの時の中では、誓願を果たせなかった心残りが日に日に強くなっていくのです。
誓願とは「至高なる一手を極めること」でした。囲碁です。私は望みを果たしてはいませんでした。碁を打ちたい。この想いはいや増して強くなっていくのです。どうして私はあの時、熱病にうなされるように、発作に押し流されるように、死を選んでしまったのでしょう。身を潜め、どこかへ逃れ、流浪の民となり、たとえ乞食に身を落としても、生きてさえあれば、未だ碁を打つことは出来たのに・・・!
強い強いこの後悔の大波が来る日も来る日も私を襲い、飲み込みます。私を襲う後悔の波は、共に居る彼をもまた暗黒の海に投げ込んでしまいます。彼もまた後悔の荒海に苦しむのを目の当たりにしますがどうにも出来ません。
ふさぎこむ私に彼はしぼり出すように尋ねました。
「余に出来ることが何か残っているであろうか」
「碁を打ちたいです」
私が即答すると彼は肩を落とし、見る見るうちにその顔は絶望で満ち、仕舞いには頭を深く抱え込んでしまいました。私はしまったと思いました。私は必死に彼をなだめました。なだめながらはたと思いついたのです。私は言いました。
「碁盤を用意させてください」
碁盤が運ばれてきました。いつも清涼殿の朝餉の間で彼と打っていた碁盤です。私は懐かしくなり、心が高揚するのを覚えました。困った顔をしている彼に、手元に二つ碁笥を置き、指示した場所に私の石も置くように頼みました。
そして、彼と再び対局したのです。久々に彼に指導碁を打ちました。
憶えています、ああ、憶えています。こうして碁を宮中で打っていました。碁を打っていたのです・・・!
そしてさらに記憶が呼び起こされました。 ああ、こんな風に打ったことがありました。あの時、碁笥を二つ手元に置いて二人分の石を置いたのは、私でした。相手にはやはり指導碁を打っていました。碁盤の向こうに座っていたのは、可愛い、可愛い・・・少年でした。
思い出しました。私には愛しい少年が居ました。今指導碁を打っている彼よりも、遥かに才能煌く少年でした。あの子は私の「誓願」と深い関係を持つ子でした。そして大切だった、本当に大切だったその子が死んでしまって居ないことを、心の臓をもぎ取られるような苦しみと共に思い出しました。このことを思い出した時に、私は慟哭したいのを抑え、さめざめと静かに泣きました。
彼は泣く私を見てとても心配しました。しかし涙した真の理由を彼に話し、彼をこれ以上苦しめることは今度こそしませんでした。私はこう言いました。
「久々に碁を打つことができ、胸の震えを止めることがどうしても出来ないのです」
佐為 下 へつづく
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